転がる種

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映画『100歳の少年と12通の手紙』

 たしか、映画『キタキツネ物語』だったか。小学校高学年の授業で鑑賞し、その感想を提出した。

「わざとらしい演出で、いかにも子ども向け。子どもをバカにしていると思う」。

 すると、大好きな先生から赤ペンでコメントが書いてあった。「子どもらしい感想、大事だと思うけどな」

 子どもらしい感想ってなんだろう。私は子どもなのに…。

  大人が描く子ども。大人がこうあるべきという子どもの姿。それに添って振る舞わなければ、子どもらしくなくて可愛くないのか。

 いまでもつき合いのある敬愛する恩師のコメントだからこそいまだに胸の奥にくすぶっている。

 

 映画『100歳の少年と12通の手紙』は、それと対極にある視点で貫かれている。子どもを子ども扱いしない。たとえそれが瀕死の少年であっても。

 白血病で重篤な状態の少年オスカーは、両親を軽蔑している。死に直面している自分と向き合わないからだ。

「両親になんて会いたくないよ。彼らは臆病なんだ」とオスカーは、担当医とも両親とも一切口を利かない。唯一話すのは、病棟にピザを配達に来た、薔薇色のワンピースを着た元プロレスラーだという女性「ローズ」だ。

 ローズは、ボランティアが大嫌い。自分の母親が慈善活動をしようものなら頭からバカにした。オスカーにも汚い言葉を使うこと、使うこと。「あら、病気なんだわ、かわいそうな子ね」なんてマダム然とせず、「くそっくらえ」ってところだ。病院も病人も臭くて大嫌いよ。

 そのローズと接すると、オスカーは気分が楽だ。悲鳴のように「愛している」を繰り返す母親や、死に向かう自分から目を背ける父親よりも、よほど話が分かる。

 だけどね、「人は誰でも死ぬのよ。あなたのお父さんやお母さんだって死ぬわ。和解できないまま死んだ最愛の息子の思い出と一緒にね。あなたはそれでいいの? 自分が先に死ぬからって、両親に意地悪してもいいわけ?」と、ローズは、諭すのではなく、あくまで友人としてオスカーを責める。片手にブランデーを持っていたっておかしくない口調で。

 もしローズが、包み込むような、いかにも教師然と、もしくは人生の先輩としてよく分かるよという体で接するなら、オスカーは死出の準備の伴いにローズを選ばなかっただろう。

 こうあらねばならない、とか、「ふつう」はこうするでしょう、とかいう振る舞いに、その人の本質がない。

 本質でないものは必要ないんだ。

 オスカーは、死に直面して存在すべてで主張する。自分はのっぴきらなない本質に迫っているんだ。そんな僕に向きあうなら、本質で来てよ。嘘っぱちなんてまっぴらだ。

 そのオスカーの主張こそ生きていることにほかならない。

 「ふつう」に振る舞ったり、人に「ふつう」を強要するのは、本質と対極にいることを示している。「ふつうこうでしょ」と言う時、自分の本質がすでに死んでいるものだから、相手の本質もいっそのこと殺してしまいたいという衝動に駆られているのだ。一種の心中である。

 じつはこの映画の素敵なのは、いま述べたこと以外のところ。ローズが咄嗟に利かせた機転が、オスカーにとって最高の死出の準備をさせた。が、ここは割愛。観るべし。

 

100歳の少年と12通の手紙 - 作品 - Yahoo!映画