転がる種

映画、本、音楽、食、美術…。日常で出会う種々。

梅仕事はやみつき。

 梅仕事はやみつき。

 

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 (大倉山梅林公園にて)

 

 じぅじぅじぅじう…。

 梅が大人になる音です。

 昨日作った「梅のシロップ漬け」(*)から、まぶした黒砂糖と米飴にどんどん梅が溶け出して音がするのです。分別のある青梅は、固くて渋くて。でもそれが黒砂糖と米飴の誘いに応じてしまえば、声を上げて溶けだし、丸みを帯びていく。いつしか青さもなくなり、黄味や赤味を帯びます。

   青梅は、溶けだす時に気体を発し、音を立てるのです。

 じぅじぅじぅじう…。

 秘め事だから周りに気づかれないように。でも音を立てずにはいられない。耳をそばだてると、ひそやかな行為の伴いとなります。

 梅雨空の広がる窓を眺めながらの梅仕事は、梅の吐息を耳にしながら、甘やかな梅の香りを愉しめるのです。

 

 *「梅のシロップ漬け」は、『おばあちゃんに聞いた「和」の保存食レシピ』(城ノ内まつ子著/講談社プラスアルファ文庫)をアレンジしてつくりました。この本は、大変優れもの。元編集者の著者が、田舎暮らしをしながら、地元のおばあちゃんたちに教えを乞い、実際に作った経験をもとに著述されています。地に足のついたこの料理本は貴重。この素敵な本を片手に、クックパッドなどネットの情報も参考にしながら保存食をつくると、自分なりのアレンジというものが、さほどの回り道(つまり失敗)もなく熟成されていきます。

 

 

ドクダミに魅せられる

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(2017年5月玉川上水沿いにて)

 

 梅の実が膨らみ始めると、ドクダミが四枚の白い花弁を開きます。五枚ではなく四枚なんて変わっているなあ、と調べてみると、花弁に見える四枚は総苞片(そうほうへん)という器官であり、花は真ん中にある黄色い尖塔でした。(草木図鑑よりhttp://aquiya.skr.jp/zukan/Houttuynia_cordata.html

  

 ドクダミが我が家に登場するようになったのは、七年ほど前のこと。

 十薬ともいわれるドクダミを、お茶としていただいたのは、ドクダミハブ茶を乾燥させてミックスさせたお茶を近所の薬局でみつけてからです。

 十薬なんてもったいぶってるけど、そんなに効くの? なんてドクダミをちっとも重んじることなく、「旬だから」と軽い気持ちでいただきました。

 

 ところが。

 忘れもしない、そのお茶をいただいたのは満月。ザーッと熱が下がったと同時に、お手洗いに直行しました。おおっ、ドクダミ!その霊験あらたかなことよ!!

 その年は懲りて、そのハブ茶ミックスのドクダミ茶は登場しなかったのですが、翌年から、ドクダミが生え始めると気になり、そわそわするようになりした。

 で、よく洗ったドクダミの茎を細く切り、キンピラゴボウに混ぜて炒め、ドクダミの葉はお浸しにしたのです。

 しっかりお料理すると、臭みはすっかり抜け、家人はドクダミが入っていることに気づかない。熱をしっかり通していますから、薬効はほとんどないでしょう。まあそれでも野生の植物のいのちをいただく機会をなるべく増やしたいので、我が家での初夏の定番としました。

 

 この六月は、梅林の近くの一戸建てから、雑木林にほど近いマンションに引っ越して初めての初夏。さらに、トランス脂肪酸の摂取をより回避する観点から、揚げ物はもとより、炒め物も食べないようになりました。

 今年からドクダミはお茶にしよう。さてどこから入手しようかと思っている矢先、友人のお母さん、マダムTの庭先のドクダミをいただきました。ワンちゃんの散歩コースや、猫ちゃんロード沿いではないことがしっかり確認されたドクダミです。

 根元から掘り出したばかりのドクダミは、初夏の日陰の匂いを放ちました。まさに魚にも負けないくらいの香り。押し出しの強いセロリがこっそり行者ニンニクを食べて笑ったような匂いです。

 最初は、無造作にポンッと紙袋に入れていたのですが、友人が「お母さん、これはすごい匂いだよ」と慌て、マダムTがその紙袋をビニール袋で包んでくれました。

 その日はちょうど新月の二日前。ハーブの薬効をいただくのであれば、摘むにはまったく適していない日ですが、ドクダミに関しては、最小限の方がいいかもしれません。

 

 その夜から新月を挟んで夜を五つ数え、ドクダミを乾かしました。

 マダムTには「煎った方が美味しいわよ」とアドバイスがあったのですが、ここはドクダミの薬効をいただきたい。カラカラに干したドクダミをそのままお茶でいただきます。

 干しただけのドクダミ茶は、緑陰のじめじめした土をギュッと凝縮したような味がします。「なんだよ、これ。セロリかなんか強いハーブって感じだ。すげえつええ(強い)」と家人。でも、煎じてしまうのはモッタイナイ。カラカラに干されたドクダミが、薬効をお湯に移していく様に魅せられてしまったのです。

 日干しですっかり色褪せたドクダミが、お湯で生気を得て、鮮やかな深緑色に変わりながら、生えていた頃を懐かしむようにピンと張りながら艶めきます。緑陰が静かな湖面に落ちたようなお湯をいただくと、ドクダミの生が私に移り、私を生かしてくれるように感じられます。

 だからいまは二日に一度はドクダミ茶。お通じが良くなるのはもちろんのこと、お茶ですから汗も出ますし、生理痛できしむ子宮がじわっと温まります。きっと冬の脂肪に溜まった毒の排出もしっかり促してくれているに違いありません。

 

 

 

ホワイトアスパラガス、茹でる

  北海道から冷蔵便で中一日置いて送られたホワイトアスパラ。

   午前中に段ボールから取り出して野菜室に入れてから、半日。たった半日で、もう色が濃くなっています。

 

 根元5センチくらいは切り落として、厚めに皮を剥いて。剥いた皮は捨てずに、お湯を沸かしている深鍋の中へ。湧き水ではない、塩素で消毒された水道水では、せっかくのホワイトアスパラの風味が損なわれます。皮を煮れば、反応しきっていない塩素は飛ぶでしょう。塩素が反応してできた有機塩素化合物は口に入るけれど、それに負けない滋養を養うことで対応するしかありません。ミネラルウオーターで煮るわけにもいかないし。納得の浄水器が届くのはまだ先です。

 

 我が家の深鍋は、横浜の元町商店街の『荒井板金製作所』で購入したもの。お店の名前は無骨ですが、店内には選りすぐりの調理用品があります。そこで一目惚れして買ったのが、『和平フレイズ 木柄ザル付鍋セット 22cm ダンチュウDA-12』。

 なによりラインが美しい。持ってみると軽く、使い勝手の良い大きさ。それに一万円札を出して数千円のお釣りがくる値段も素敵。さすが、料理のプロが読む専門雑誌『dancyu』。家庭の台所にも行き届いた配慮をしておられる。

 深鍋は、我が家の鍋類で最も使用頻度が高いもの。購入してから五年ほど経つでしょうか。二年ほど前、蓋の金具を溶かしてしまいましたが、『荒井板金製作所』さんは、金具を数百円で取り寄せてくださいました。つくづくと費用対効果の高い鍋です。

 

 深鍋にいっぱいの水を淹れ、アスパラの皮を入れて。沸騰すると、アスパラの皮の香りが広がりました。剥いたアスパラを、深鍋を購入した際についてきた木の柄(え)のついたザルに入れて、ぐらぐらとアスパラの皮が煮えている熱湯に入れます。

 昨年のグリーンアスパラは、前の家のガスコンロで4分。いまの家のガスコンロでは何分だろう。ホワイトアスパラだから、グリーンより確実に早く茹で上がります。

 タイマーと、熱湯のなかで揺れるホワイトアスパラと。双方をにらめっこしながら、2分30秒を過ぎたあたりでかじると、うん、ちょうどいい。歯ごたえがありながら、やわらかく舌の上に乗ります。茹で上がったホワイトアスパラのお湯を切りながら、お皿に盛って「できたよー」と家人に声をかけました。

 

 今日は、「オランデーズソーズ」をあらかじめつくっておきました。

 数多くあるクックパッドのレシピのなかで、白ワインとエシャロットを使ったレシピが美味しそうだったのですが、簡単にできるレシピを参考にしました。

 ふだん卵は食べないのですが、今日は年に一回の「アスパラディナー」。昨年の七夕に巣だった雀の「豆腐」にごめんなさいをしながら、有精卵を買いました。放し飼いでのどかに暮らしながら恋もした鶏の卵です。虚偽や誇大表示ではないことを願いつつ、いまは元気な大人の雀として過ごしているはずの豆腐にも許しを乞いました。

 

 卵黄2個、レモン汁大匙2、バター48gとオリーブオイル32g、クレイジーソルトと黒胡椒。

 クックパットの簡単レシピによれば、バターが80gなのですが、作っている最中に足りないことが分かり、オリーブオイルを入れました。

 湯せんで卵黄2個、レモン汁大匙2、クレイジーソルトと黒胡椒を泡立て器で混ぜます。火元に置いたバター48gとオリーブオイル32gを溶けたものだけちょっとずつ入れて、さらに混ぜました。

 汗だくになって混ぜていると、ボールの底が見え始め、角が立ってきました。それが入っている小さなボールを火元から外し、お湯を張った大きなボールに浸しておきました。

 

 ホワイトアスパラ二十五本ほど、グリーンアスパラ十数本、皮ごと丸ごと30分茹でたジャガイモ。それにオランデーズソースと、『蒼龍 無添加白ワイン』でいただきました。

 

 今年初の試みのオランデーズソースをいただくと、「オリーブオイルと塩(クレイジーソルト)、コショウ(すり卸しの黒コショウ)でシンプルに食べる方が美味しい」と家人。やはりバターが足りなかったか。それとも、エシャロットと白ワインを使うレシピに挑戦すれば良かったか。年内に何度か作って、来年のホワイトアスパラに臨むことにします。

 

 『蒼龍 無添加白ワイン』は、ふだん赤の方を飲んでいるので、今日は白を、と安直に買い求めたのですが、青みが強すぎました。今日の食事には、蜂蜜香のする金色の白ワインが良かったかも。

 越してきたばかりで、ワインをどこで買っていいのやら分からず、忙しさに任せて近くのスーパーで入手したのですが、もっと丁寧に考えるのが正解でした。こだわりの酒屋とそこにいる食とワインを愛する店員さんを地元で探せていない現状では、近くのエノテカに足を運ぶくらいの労力を惜しんではいけなかったのです。亜硝酸塩が入っているリスクを回避するよりも、今回はとにかく料理とのマリアージュを一番にするべきでした。なにしろ、年に一回のことですから。

  

 まあ、いろいろあるにせよ、やはり美味しいアスパラ!

 美味しい、美味しい、という歓声が食卓に上りました。

ホワイトアスパラガス、届く

 どっさり届いたのは、ホワイトアスパラ。

 ほかに、グリーンアスパラが二種類、長さも太さも同じプロのお百姓さんがつくったものと、母の畑でひょろひょろと生えている細くて曲がったものと。それに山で採ったウドも。

 

 開いた段ボールから、遠くなった初夏の早朝が立ち昇ります。

 早朝にアスパラを採って、採れたてを井戸水で洗って、大鍋で茹でて、みんなで食べる。母方の祖母の家には、大きなアスパラ畑がありました。

 

 アスパラは、土から出るまではホワイト、土から出てお日様を浴びるとグリーンになります。ホワイトアスパラを採るのは、まだ畑が白い霧に覆われている頃。寝ぼけ眼で畑に出ると、辺りは松などの森の香りとひんやりとした静けさに満ち、背筋が伸びます。深呼吸すると、清涼な空気がからだのなかに広がりました。

 土の中のホワイトアスパラが生えているのをみつけるには、ほんのわずかな土の隆起を探します。それは小川のへりの草むらでアマガエルをみつけるのに似ていました。ホワイトアスパラも、アマガエルも。それぞれが持つわずかなリズムをつかまえます。

 私はホワイトアスパラのありかをいち早くみつけて、妹と競争するのが好きでした。小さな弟は、長靴に土が入らないように歩くので精一杯です。

 

 土のなかのアスパラを切り、十分集めたら、湧き水を流しっぱなしにしている小屋のシンクでアスパラを洗います。

 アスパラは、大きな鍋で茹でられ、大皿に盛られます。

 おばあちゃんと、叔父さんと、お父さんと、お母さんと、妹と、弟と。マヨネーズをつけながら、みんなで食べるホワイトアスパラはそれはそれは美味しいものでした。

 ホワイトアスパラでお腹がすっかりいっぱいになり、外に出ると、お日様が畑にかかっていた白い霧を拭い、昼の準備を始めています。

 

 段ボールからホワイトアスパラを取り出すと、初夏の霧が広がるようでした。思えばあの霧もホワイトアスパラの美味しさの一つだったのです。とにかく早く、早くと急かすようにいただくホワイトアスパラ。採れたてが最高なのに、目の前にあるホワイトアスパラは、北海道から冷蔵便、発送日から中一日置いての到着。これは急がないと。

 ホワイトアスパラの状態を見て、まあ大丈夫そうだと判断するやいなや、沙羅に電話をしました。

「もしもし。あのね、実家からホワイトアスパラが届いたの。今から持って行くから」。電話を切るとすぐに着替えて外出しました。

 

朝の珈琲

 5月22日。

 暑いですね。18年間、北海道で生まれ育った私には、ぐっとくる初夏です。

 今日も珈琲にしよう。

 

 さあ、仕事を始めるぞ。

 と、月の夜から太陽の昼に切り換えモードの時に、近頃は頻繁に珈琲が登場します。

 この週末もていねいに焙煎された珈琲豆を入手できなかったので、駅前の『OKDAKYU OX』で購入した、小川珈琲の『オーガニックブレンド』で。

 

 珈琲専門店でいただく時と違い、家で飲むのはとんでもないアメリカン。

 珈琲粉15gで750mlくらいの珈琲をつくります。

 手軽な市販の珈琲豆ほど、ちゃんと淹れないと味や香りが損なわれるので、手は抜けません。

 

 「さあお茶だ」と思い立ったら、まずは『danchyu』が開発したという美しいラインを描きながらも機能的な深い両手鍋にたっぷりお湯を淹れて沸かします。

 

 おいしいお茶を淹れるという決意を生かすには、その場にとにかく空白が必要。

 沸騰するまでの10分弱の間に、シンクや食器の水切り器をきれいにしたり、冷蔵庫の整理をしたり。 その間、南部鉄瓶に、ミネラルウオーターを繊細に揺らしたお水を淹れて、沸かします。

 

 珈琲粉を測り終える頃には、先ほどの鍋のお湯が沸いています。

 そのお湯で、珈琲サーバー、珈琲ドリッパー、ittalaのマグカップを温めて、拭き上げます。このお湯で拭き上げる作業が大好き。

 南部鉄瓶のお湯が沸くまでに、珈琲のお伴の準備。サーバーに測り終えた珈琲粉をセットしておきます。

 

 今日は、永福町の『ラフレ』のブドウで発酵させた食パンを焼いて、『雪印バター 食塩不使用』を焼いた食パンの上で溶かし、砂糖不使用のアプリコットジャムをたっぷりと。

 アプリコットジャムって、さわやかな酸味と甘みが同居して、どうしようもなくキュート。

 

 さて、お湯が沸いたので、二つのittalaのマグカップに交互にお湯を注ぎ、すぐに珈琲ドリッパーに移しました。珈琲ドリッパーにマグカップ5杯分の熱湯を満たします。

 ドリッパーで、珈琲粉から珈琲が落ちない程度の微量のお湯を落として、20秒ほど蒸らします。20秒は適当。たいていシンクのお湯などをダスターで拭いたりして待ちます。

 蒸らした珈琲粉に、お湯を投じます。最初は、同心円を描きながら外に向け、以降は、中央に小さな円を描いて。お湯でぷっくり珈琲粉を膨らませながら、しぼませないように、あふれさせないように、注意深くお湯を投じ続けます。

 珈琲の香りがふわーっと立ち昇り、幸せな心地が広がったら、でき上がり。

 フィンランドで買った、marimeccoのトレイに、アプリコットジャムのトーストと、超アメリカンなブレンド珈琲を載せます。

 今朝の音楽は、グレゴリオ聖歌

 良い仕事ができますように。

『シーモア先生と大人の人生入門』

 ある指揮者の方に、「才能がある人に、性格が悪い人というのがままいますが、それはどうなんでしょうね?」と伺った。

 すると、その人は「まあ、それはしょうがないですよね」と苦笑いをされ、「実際、そういうケースはありますもんね」とおっしゃった。

 

「物質的な豊かさや地位では幸せになれない。それなのに、人生はまるで金儲けで成功するためのゲームだ」とドキュメンタリーのなかで言うのは、俳優のイーサン・ホーク。彼がこの映画の監督である。

 ではどうしたらいいのか。「シーモア先生」に答えを求めた。

 シーモア先生ことシーモアバーンスタインは、ピアニストであり、作曲家。ピアノの先生でもある。

 彼の立ち居振る舞い、眼差し、なにか口にする言葉。イーサン・ホークは、シーモア先生から本物の幸せの匂いを嗅ぎ取った。

 

 映画のなかで、シーモア先生は冒頭と同じ質問に答えている。

 「たとえばM.ブランドなどは性格が悪いと有名ですが、才能があるとそうなるんでしょうか?」

「それは、二つが相反して、矛盾しているからだよ」とシーモア先生。シーモア先生の傍らにいる、いかにもピアニストらしい指を持つ教え子が代わりに続ける。

「すべてが音楽なんです。日常生活もすべて。ピアノの音を繊細に聞くように、相手の話や、その奥にある感情を読み取るんです」

 音楽は音楽、日常生活は日常生活と分離させない、切り離さない。すべてに音楽をみることで、音楽がより豊かになる。

「不思議なもので、周囲と喧嘩をしたりして不調和があると、音もダメなんだよ」とシーモア先生。

 

 プロのピアニストとして聴衆を魅了し、手厳しい評論家からも好評を得ていたシーモアバーンスタインは、ある日、講演活動を止める決意をする。

 講演を始める前の緊張感に耐えられなくなったこと、大衆が求める音楽と芸術家としての音楽への希求のズレが大きすぎること。主にそれらが止める原因だったという。

「先生は僕に、才能のある人間はその才能を社会に使うべきだと言っていました。先生はいま、才能の浪費をしているのではないですか」

 と、プロのピアニストである弟子が問うと、

「私は、講演を止めてからとても幸せだ。それに私の才能は君に注いでいるだろう」と答えた。

 音楽を愛するからこそ、同じ音楽を愛する後続に惜しみない愛情を注ぐのだ。

 

 「宗教は、神がいると信じないと始まらないけれど、音楽は違う。まず楽譜は、神の言葉なんだからね」とシーモア先生。

 ピアノは感情を表現する。自分の感情、作曲家の感情、さらに神の感情を。

 ピアノを表現する技術を高めるには、数千ともなる途方もない時間が費やされる。が、それだけの価値はあるのだな、とシーモア先生の高い技術と深い示唆に裏打ちされた個人レッスンの様子を見ていると納得する。

 映画では最後にシーモア先生が、シーモアバーンスタインに戻り、演奏している。彼には天使のはしごが架かっていた。

 http://www.uplink.co.jp/seymour/

映画『100歳の少年と12通の手紙』

 たしか、映画『キタキツネ物語』だったか。小学校高学年の授業で鑑賞し、その感想を提出した。

「わざとらしい演出で、いかにも子ども向け。子どもをバカにしていると思う」。

 すると、大好きな先生から赤ペンでコメントが書いてあった。「子どもらしい感想、大事だと思うけどな」

 子どもらしい感想ってなんだろう。私は子どもなのに…。

  大人が描く子ども。大人がこうあるべきという子どもの姿。それに添って振る舞わなければ、子どもらしくなくて可愛くないのか。

 いまでもつき合いのある敬愛する恩師のコメントだからこそいまだに胸の奥にくすぶっている。

 

 映画『100歳の少年と12通の手紙』は、それと対極にある視点で貫かれている。子どもを子ども扱いしない。たとえそれが瀕死の少年であっても。

 白血病で重篤な状態の少年オスカーは、両親を軽蔑している。死に直面している自分と向き合わないからだ。

「両親になんて会いたくないよ。彼らは臆病なんだ」とオスカーは、担当医とも両親とも一切口を利かない。唯一話すのは、病棟にピザを配達に来た、薔薇色のワンピースを着た元プロレスラーだという女性「ローズ」だ。

 ローズは、ボランティアが大嫌い。自分の母親が慈善活動をしようものなら頭からバカにした。オスカーにも汚い言葉を使うこと、使うこと。「あら、病気なんだわ、かわいそうな子ね」なんてマダム然とせず、「くそっくらえ」ってところだ。病院も病人も臭くて大嫌いよ。

 そのローズと接すると、オスカーは気分が楽だ。悲鳴のように「愛している」を繰り返す母親や、死に向かう自分から目を背ける父親よりも、よほど話が分かる。

 だけどね、「人は誰でも死ぬのよ。あなたのお父さんやお母さんだって死ぬわ。和解できないまま死んだ最愛の息子の思い出と一緒にね。あなたはそれでいいの? 自分が先に死ぬからって、両親に意地悪してもいいわけ?」と、ローズは、諭すのではなく、あくまで友人としてオスカーを責める。片手にブランデーを持っていたっておかしくない口調で。

 もしローズが、包み込むような、いかにも教師然と、もしくは人生の先輩としてよく分かるよという体で接するなら、オスカーは死出の準備の伴いにローズを選ばなかっただろう。

 こうあらねばならない、とか、「ふつう」はこうするでしょう、とかいう振る舞いに、その人の本質がない。

 本質でないものは必要ないんだ。

 オスカーは、死に直面して存在すべてで主張する。自分はのっぴきらなない本質に迫っているんだ。そんな僕に向きあうなら、本質で来てよ。嘘っぱちなんてまっぴらだ。

 そのオスカーの主張こそ生きていることにほかならない。

 「ふつう」に振る舞ったり、人に「ふつう」を強要するのは、本質と対極にいることを示している。「ふつうこうでしょ」と言う時、自分の本質がすでに死んでいるものだから、相手の本質もいっそのこと殺してしまいたいという衝動に駆られているのだ。一種の心中である。

 じつはこの映画の素敵なのは、いま述べたこと以外のところ。ローズが咄嗟に利かせた機転が、オスカーにとって最高の死出の準備をさせた。が、ここは割愛。観るべし。

 

100歳の少年と12通の手紙 - 作品 - Yahoo!映画